頼母(たのも)

集落のまん中に広がる湿地帯は田園跡

頼母は盛松の枝郷といわれ、慶長のはじめ頃、度会郡南島町道行竈から4人が移住し、製塩をはじめたといわれています。そのうち盛松に移って塩の生産に励んだとされ、年貢も米・麦ばかりでなく塩も換算して納められたようです。また盛松の兵九郎という人物は頼母で新田6反3畝6歩を得て稲作を始め、その後三木埼西端のエビレも開拓しました。江戸時代後期の1832(天保3)年に書かれた紀州藩木本組(熊野市と尾鷲市南部の沿岸部を管轄)の地図「木本組全図」に、「頼母竈」と集落が記載されています。頼母には昭和43年まで牛を使って耕作をしながら人が住んでいました。山の神や頼母神社跡、そして水田地跡から豊かな暮らしぶりがうかがえます。

棚田跡の石積み

かつての棚田跡。川に沿っていくつかの田んぼが耕されていました。この川で昔、ウナギ取りをしていたそう。近くにある浴槽はウナギを生かしていたものだとか。

山の神

集落の入り口に石を祠に山の神(庚申さん?)が祀られています。この先が頼母集落。集落間を歩いて行き来していた時代、山の神が安堵の気持ちにさせてくれたそう。

炭竈跡

炭焼き用の竈。三木埼の豊かな森林で、炭焼き職人が幾人か暮らしていました。

墓石

明治の年号が刻まれた墓碑。集落があった証として、ここに残されています。

住居跡

石垣に囲まれた空き地にわずかに残された暮らしの道具。住居跡であることを示しています。

水田跡

海の近くに広々とした湿原があり、ここはかつての水田。牛が一頭いて、活躍していたそう。今、夏には半夏生の美しい風景が広がります。この頼母から牛を連れて太地でも稲作をしていたんだとか。

神社跡

集落の中にあった氏神さんは、今は三木浦に移転した頼母家で祠をつくって祀られています。

柱状節理の岩肌と紺碧の熊野灘を臨むまん丸石の磯。子どもたちはこの磯に潜って遊んだのだとか。

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